クロノスとカイロス

ユング心理学入門」

>イメージの背後にある直線性が気になる…

書き付けたところ、すぐに頭を叩かれた。

自己実現は究極の目標であると述べたが、これは一つの静止した到達点があり、それを自己実現と呼んでいるというものではない。…自己実現はつねに発展してやまぬ過程であり、その過程そのものに大きい人生の意義がある。実際、われわれは自分の自己(セルフ)そのものを知りつくすことはなく、自己の象徴的表現を通じてその働きを意識化することができるのである。
[ユング心理学入門, 河合隼雄, P.260 岩波現代文庫]

 「こらこら、早まった解釈をせずに、ちゃんと最後まで読みなさい」

 「はい…」

老賢者からの説教のようにイメージできるのは、自己が持たらす象徴の投影だろうか。直線への批判的視点は織り込み済みだった…。
高校の頃、進路講演会と題して卒業生のゲストからお話を聞く機会があった。スピーカは、当時NHKでスポーツキャスタをされていた女性の方だったが、その話で取り上げられた「ジョハリの窓」というモデルをよく覚えている。平面に四角形を描いて、それを自分とする。その窓枠が十字で四面に区切られ、左から窓への方向が「自分から見る自己」、上から窓への方向は「他者から見られる自己」。とすると、窓の四面は、左上が他者・自分ともに知る自己、左下が自分のみ知る自己、右上が他者のみ知る自己、そして右下が他者・自分とも知らない自己、となる。このモデルの展開としては、右下の面に自己の可能性が潜在するとして、その面積を小さくすること、つまり、他者にも自分にも開かれた自己を目指そうというセルフ・ディスクロージャの方向にいくのだけれど、それには疑問が残る。ただ、自己を把握する一つのモデルとしてわかりやすい。
このモデルを、ユングの心理学に無理繰りあてはめると、右の上下面が無意識の領界となり、左側の意識との相補的な自己を構成することになるのだろう。右下の隠された自己は集合的無意識にあてはまる。自己を把握する、と書いたけれど、この図式から導かれるのは、自分の自己像ですら、その全体を自分で理解することはできないということになる。
対象の現れ、その理解という向き。そしてその不可能性。それは、対象が自己に置かれても変わらない。理解は常に無向の、無限への過程となる。「自己実現はつねに発展してやまぬ過程であり、その過程そのものに大きい人生の意義がある」、生きることの止まらなさを思わされる。
影、アニマ、アニムス、自己。ユングが心象に当てはめる象徴には、布置(コンステレーション)という言葉から伝わるように、十二支や十二宮、大小アルカナに通じる、心象が持つ機能を分割し、根源的な役割へ投影する機制が連想される。神秘的ではあるけれど、もちろん、心理療法として心の回復を見いだしてきたという、経験科学の事例がその理論を支え、全ての方法がベールに包まれることはない。ただ、予知夢や共時性といった概念になると、因果的説明に収まらず、科学の範疇からはみ出しはじめる。直線的な言説のみを真とするのが科学的、学問的方法だとしたら、それだけで理解することはできないのだろう。
最後に言及されたのは、「時」の象徴としてのクロノスとカイロス。時計的均質な時間をクロノスとすると、カイロスは意識に変化をもたらすような「意義深い」時間を表す。臨床的には、不潔恐怖症の子が、顔も手も汚しながら遊び、自発的に手を洗い、人のハンカチで手を拭くようになる時点であり、芸術作品や人との出会いで覚える頭を殴られるような体験もそこに当てはまるだろう。意識の変化、それは即ち、認識の変化であり、行動の変化である。臨床的で、経験的な概念化であるから、これを原因として、なにか救いとなる結果を望むことはできない。カイロス的時間は因果に収まらない。ただ、すでに、それは、そこに、ある。クロノスが秒針を進める隣でカイロス時も刻まれていることを思うとき、因果の鎖は少しでもその縛りをゆるめるのかもしれない。