20100210

知識、続き。
知識として"体"から外化されたものは、道具に過ぎない、ように感じる。そこにペンがあって、それを使って言葉をノートへ書き付けるように。流出論も弁証法も布置(コンステレーション)も、それぞれ名前を充てられてパッケージされた、それぞれにモノだ。「物」として、それらに触れることはできないけれど。
こうして、知識をモノとするのならば、それらが静態的であることは妨げられない。その静性に対して、あえて言挙げできるのは、部屋に散らかる物を整理するように、手に触れることのないモノたちも整理が必要となる場面がある、というくらいのもの。
手に触れることのない、それらモノたちは、けれど、モノである限り"体"から外化されている。"体"として内化されている(="体"である)かぎり、それは"持つ"ことなしに動き、動かしうるはずだから。"体"の一部として内在化した状態、つまり、腑に落ちたとき、知識はもはや知識ではないだろう。主体的に道具化した場合にのみ、それは、そのように呼ばれる。
記憶。"体"から外化されたモノ、その一つの行き着く先として、体に備わる記憶があるように思う(※)。客体的に感じるその「強さ」を井筒俊彦がこんな人との出会いにみていた。

 ちょっと因縁的な話なんですが、太平洋戦争勃発の直前、ムーサー・ジャールッラーハというタタール人のすごい学者が日本にやってきたが、だれもアラビア語を話す人がいない。そこで私が通訳兼生徒になって彼の代々木の下宿へ通ってアラビア語を習ったのです。その人のもとで私はアラビア語だけではなくて規模雄大な学問というもののあり方を習った。なにしろ一番驚いたのは世界中を放浪していて本なんか一冊ももっていないんです。それでいて、イスラームの重要な古典はすべて暗記している。
 そして言うことには、いまの学者はダメだ、いつもカタツムリみたいに本を背負って動かなければならないんだからなあ、と。われわれには想像もできない驚くべき記憶力頼りに私に教えてくれた。
(「イスラーム文明の現代的意義」pp141-142, 『叡智の台座』井筒俊彦, 岩波書店 より)

ここに描かれているのは、あらゆることを記憶しようとする動機ではない。外化以前にある「知識」の生々しさだ。体に備わった記憶の動性には、鼓動や呼吸に通じるような原始的な生命感が備わる。
動態においてモノと関わると呼べる事態は、こんな状態に息づくのだろう。
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※道具を持つことや手をつなぐことなどによって、体を間接的に外延する方向もありうる。