それ故にわれわれは身を励まして、一度限りを果たそうとする。これをつましい素手の内に、さらに溢れんばかりの眼の内に、物言わぬ心の内に、保とうとする。一度限りに、成ろうとする。誰にこれを渡すのか。すべてを永遠に留めるのがいかにも望ましいところだが、しかし彼岸の、異なった関連の中へ、哀しいかな、何を持ち越せるというのか。この世のさまざまをおもむろに学び取った観察も、この世で起こった出来事も、何ひとつとして持ち越せはしない。それではもろもろの苦をか。何よりも、憂いの人生をか。愛をめぐる長い体験をか。つまりは言葉によってはまったく語れぬものをか。しかし後になり、星々の間に至って、それが何になる。星たちのほうがすぐれて、言葉によっては語れぬ者たちなのだ。たとえば旅人も山の稜線の斜面から一摑みの土を、これも万人にとって言葉によっては語れぬものを、谷へ持って降りはしない。記念に携えるのは摘み取った言葉、無垢の言葉、青や黄の竜胆(りんどう)ではないか。われわれがこの世にあるのは、おそらく、言葉によって語る為だ。家があった、橋があった、泉があった、門が、壷が、果樹が、窓があった……と。せいぜいが、石柱があった、塔があった、と。しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、こえることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を残すだけではないか……かすかに。
ドゥイノ・エレギー 第九歌(四連)、承前