よき、もの・こと、それが、決して感覚できないとしたら。
どうして、それ・ら、を目指せるのか。
よき、もの・こと、それが、ある/ない。
ない。
としたら。
その主語はどこからやってくるのか。
 *
まったなしの、ひとつひとつの訪れに対面して、
せめて、名付ける、ことで、しか、落ち着かせることができない。
その、名付け、で、包まれた、もの。
  **
が、主語の位置を取る、ようにも、うかがえる。

まったなしの、ひとつひとつの、つねに、対面して、訪れ。

 ここは、この世は言葉によって語れるものの時であり、その古里なのだ。とは言え、心の秘密を打明けてみるがよい。常にもまして事柄が、体験に掛かる事柄が、落ちて行くではないか。事柄を追いやりそれに取って代わるのは、表象を受けつけぬ、行為であるのだ。外殻を下から突きあげる行為であり、内で行動がひとり立ちに育って別の輪郭を取るやいなや、外殻はわれから粉粉に飛び散る。鎚(つち)と鎚との間にあって、われわれの心は存続する。同様に、舌は歯と歯の間にあってそれでも、それでもなお称讃しつづける者であるのだ。
ドウィノ・エレギー 第九歌(五連)、承前

 それ故にわれわれは身を励まして、一度限りを果たそうとする。これをつましい素手の内に、さらに溢れんばかりの眼の内に、物言わぬ心の内に、保とうとする。一度限りに、成ろうとする。誰にこれを渡すのか。すべてを永遠に留めるのがいかにも望ましいところだが、しかし彼岸の、異なった関連の中へ、哀しいかな、何を持ち越せるというのか。この世のさまざまをおもむろに学び取った観察も、この世で起こった出来事も、何ひとつとして持ち越せはしない。それではもろもろの苦をか。何よりも、憂いの人生をか。愛をめぐる長い体験をか。つまりは言葉によってはまったく語れぬものをか。しかし後になり、星々の間に至って、それが何になる。星たちのほうがすぐれて、言葉によっては語れぬ者たちなのだ。たとえば旅人も山の稜線の斜面から一摑みの土を、これも万人にとって言葉によっては語れぬものを、谷へ持って降りはしない。記念に携えるのは摘み取った言葉、無垢の言葉、青や黄の竜胆(りんどう)ではないか。われわれがこの世にあるのは、おそらく、言葉によって語る為だ。家があった、橋があった、泉があった、門が、壷が、果樹が、窓があった……と。せいぜいが、石柱があった、塔があった、と。しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、こえることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を残すだけではないか……かすかに。
ドゥイノ・エレギー 第九歌(四連)、承前

そうではなくて、この世にあるということは多大のことであり、しかも、この世にあるものはすべて、どうやらわれわれを必要としているが故にだ。この消え行く定めのものが、奇妙にも、われわれに掛かる。もっともはかなく消えて行くこのわれわれに。すべてのものはたった一度、一度限りだ。一度限りで、それきり還らない。われわれも一度限り、二度とはない。しかし一度限りであっても、その一度であったということ、この世のものであったということは、撤回の出来ぬことであると見える。
ドゥイノ・エレギー 第九歌(三連)、承前

近づく亡失を性急に引き受けて、先取りの境地を幸いとする故ではないのだ。知れぬものをあながちに知ろうとする故でもなく、あるいは心の覚悟の為でもない。心なら月桂樹の内にも残るだろう。
ドゥイノ・エレギー 第九歌(二連)、承前

何故だ。もしも命の残りを月桂樹(ダフネー)のように、ほかの緑よりはいくらか暗く繁り、葉の端々を風の笑みのようにふるわせ、そのようにして過ごすこともなるものなら、何故、人として生きなくてはならないのか、そして運命を避けながら、運命を追い求めるのか。
ドゥイノ・エレギー 第九歌(一連) ライナー・マリア・リルケ(『詩への小路』古井由吉 より)